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2024年度卒業式が挙行されました



卒業生・大学院修了生へのメッセージ

「万物は、中庸をめざす」
大学院修了式・卒業式にあたり、ひと言、お祝いと餞の言葉を述べさせてください。私がこれから取り上げる話題は、すでに皆さんが学び終えられた大学での、いわば補講のようなものとご理解いただけたら幸いです。毎年、私は、この時期が近づくにつれて、ちょっとした苦しみを味わいます。その日に大学を去る卒業生、修了生たちに対して、どんな励ましの言葉を贈り届けることができるだろうか、と。毎日、そのことについて思い悩みながら過ごしているのですが、なかなか上手な文章が出てきません。しかし今年は、ある親しい友人から送られてきた一通のメールからヒントを得ることができました。しかしそれを文章にするのは、やはり大きな困難が伴いました。仮にそのヒントに名前を与えるなら、「万物は、中庸をめざす」。いったい、だれの言葉か、おわかりでしょうか。
今から約八年前のことです。当時、世間で話題となっていたある一冊のベストセラーに、好奇心旺盛な私の目が留まりました。本のタイトルは『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』。著者である山口周さんの肩書は、著述業、経営コンサルタント。その彼が展開した主張とは、私流に言い直してみると次のようなものでした。私たちの社会には、優れた人材がたくさんいる。しかし、彼らが導き出す答えはおのずと似通ったものとなる。そこで、いわゆる「正解のコモディティ化」という現象が起こる。コモディティ化とは、端的に、「一般化」の意味です。つまり、世の中が、正解ばかりの社会になってしまうということです。これでは、いけない。これでは、今後の社会の発展は望めない。そこで求められるのが、優等生的な答えではなく、自分独自の価値を創出できる人材ということになります。では、具体的にそれはどんな資質の持ち主を言うか、というと、優れた「美意識」を備えた人材ということになるのですね。美を鑑賞し、分析し、それをクリエイトに結びつける能力。ビジネスとは一見、無縁に見える美意識が、実は、世界を見る目を変え、斬新なアイデアを生み、イノベーションを引き出す力に結びつくと山口さんは考えるのです。たとえば、アップルの創業者スティーブ・ジョブズらの名前を挙げ、これまでグローバルなビジネス界でめざましく活躍した人物は、みな優れた美意識の持ち主だった、というのですね。
しかし、ここで、立ちどまらなくてはなりません。すなわち、美意識というのは、あくまでも相対的な観念であるということ。個人によって、時代とともにその観念そのものも変容する。大切なのは、蓼食う虫も好き好き、十人十色、この精神をしっかりと足場にできる美意識です。そうでなければ、結局のところは、「正解のコモディティ化」と同じ結果に陥ってしまうからです。つまり、正解ではなく、それこそ、ひとりよがりな美意識の押し売りになってしまう。世界のエリートたちが美意識を鍛えることに関心を持つのは、人間の小さな好みや直観が、ある日、突然変異を引き起こし、巨大なマーケットの誕生につながるかもしれない、そうした期待を胸に秘めていると考えているからなのです。例えば、真珠を例に挙げましょう。皆さんは、非の打ちどころのない丸みを帯びた本真珠と、くすみを帯び、歪みをはらんだいわゆる「バロック真珠」と呼ばれる真珠のどちらがお好みでしょうか。皆さんの美意識はどちらに反応するでしょうか。
さて、前置きはこれくらいにして、先ほど紹介した「万物は、中庸をめざす」の話題に移ります。友人が紹介してくれたこの言葉は、今、紹介した『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』の著者、山口周さんの最新著に書かれていた内容でした。それに私が勝手にタイトルをつけたというわけです。友人の勧めにしたがい、私はさっそくその電子版を購入しました。ただし、その本のタイトルそのものは、私の読書欲をいささか削ぐものでした。『人生の経営戦略(Life Management Strategy)』。私は、何といっても文学者です。今日のこの卒業式の日を意識していなければ、決して手にとることのなかったはずの本です。ところが、しばらく読み進めていくうち、発見したのです。ひょっとすると、これこそは、激動する二十一世紀を賢くサバイブするための最良の知恵の一つかもしれない、と。結論はきわめて地味なものです。私なりに要約すると、それこそは、「万物は、中庸をめざす」。「中庸」の意味、お分かりでしょうか。辞典にはこうあります。「考え方や行動などがひとつの立場に偏らず中正であること。 過不足がなく、極端に走らないこと」。
山口さんは、私たちの生き方には、二つのタイプがあることに注目します。少し難しくなりますが、一つは、「マキアヴェリ型」、そしてもう一つが、「ルソー型」。マキアヴェリは、ルネッサンス期のイタリアに登場した政治思想家です。そして、ルソーは、啓蒙主義期のフランスに現れた哲学者です。「マキアヴェリ型人生論」でイメージされているのは、組織のために身を粉にし、なんでもやります型のタイプ。かつてわが国の高度成長期に、「モーレツ社員」という言葉が流行しました。このマキアヴェリ型には、マキアヴェリの哲学が色濃く反映しています。すなわち、「目的達成のためならいかなる手段も正当化される」。それに対して、「ルソー型人生論」では、世俗的な成功の夢にとらわれず、自分の身の丈に合わせた、自然流の理想主義的な人生が奨励されます。これはむろん、ルソーの哲学の反映です。皆さんもご存じでしょう。「自然へ帰れ(retour à la nature)」。では、皆さんは、どちらの人生を得と考え、選択されるでしょうか。闘争型か、自然流か。ところが、そのいずれにも落とし穴がある、というのが山口さんの考えです。組織というのは、残酷で冷徹な一面をもっています。「何でもやります」タイプのビジネスパーソンを組織は重用します。ところが、逆にそうして組織一本で生きた人間はなかなか人望が得られず、思うように出世の道を歩むことができません。他方、自然流の生き方をめざす「ルソー型」の組織人にも落とし穴がある。自然流など論外、自然流では、この、生き馬の目をぬくグローバルビジネスの競争には勝てない、として早々に出世レースから振るい落とされてしまう。そこで山口さんが、切り札として提示するのが、第三のタイプです。山口さんは、それを「アリストテレス型」と名付けました。おそらくは大学での学びのどこかの段階で耳にしたはずのギリシャの哲学者。アリストテレス型とは、マキアヴェリ型人生論とルソー型人生論を掛け合わせ、そこからおのずと開かれてくる第三の道を意味します。すなわち、「自分らしい人生を歩み、経済的・社会的にも安定した人生を送る」。まさに、中庸の極みであり、これはこれで文句のつけようのない生き方と言えるでしょう。しかし、何か、当たり前すぎるような気がしないでもありません。こうした生き方がアリストテレス型と呼ばれる所以は、むろん彼が理想とした哲学にあります。アリストテレスは、人生の目的とは、「善き生活(the good life)」にあると考え、それを実現するには、極端を退け、中庸の道を選ぶことを至上の道とみなしたのでした。
しかし、中庸というと、何かしら、ありふれていて魅力に欠ける生き方のようにも見えます。では「中庸」を英語で言い換えてみましょう。「golden mean」。「黄金比」の意味ももつこの言葉は、まさに「黄金の中庸」というイメージを喚起します。黄金であるからには、そうやすやすとは手に入りません。繰り返しますが、「黄金の中庸」とは、過剰と欠乏という二つの両極の間に生まれる望ましい中間点を意味します。人間の勇気について例を挙げれば、勇気はたしかに「美徳」とされますが、度が過ぎると「無謀」となり、それが足りなければ「臆病」とみなされます。実は、この中庸、私たちの近くにあって、何もしなくてもすぐ手に入るような錯覚を招くところが危険なのです。身近にあるかのように見せかけて、実は無限に遠いところにある。そして中心を射るというのは、弓道の競技を思い起こすまでもなく、とてつもなく難しい。なぜなら、私たち、か弱き人間たちは、つねに左右に、振り子のように振れ、視点は定まらず、心は落ちつく場所を知らないからです。自分という振り子をしっかりと垂直に固定し落ちつかせるには、限りない自制と忍耐が必要となります。人間の愛も同じです。慈しみに満ちた、持続的な、安定した愛を得るのは、振り子のように揺れる人間の心にとっては至難の業といって良いでしょう。地球社会の現実にも目を向けてみましょう。人類にとって永遠の理想である平和は、まさに人類が「黄金の中庸」を勝ちえた事態を言います。ウクライナ戦争の現場にも、廃墟と化したガザの瓦礫にも、それぞれに憎悪は残るものの、しかし人間の心は、いずれは中庸を求めて和解の道に向かっていきます。人間が、永遠の憎悪に留まることはありません。そうはいえ、平和のシンボルである「黄金の中庸」も、黄金である以上は、そう簡単には手にできません。黄金の中庸の実現に至るには、どうしても、自制や忍耐のほかに、許しの精神が必要になるからです。では、その許しの精神を、どこから学ぶのか。思うにこれこそが、人間に課せられた永遠のテーマなのですね。
マキアヴェリだ、ルソーだ、アリストテレスだ、というが、何を今さら。中国の孔子だって同じようなことを言っているよ、今さら、中庸だなんて、古い、古臭い。現実はもっと厳しい。今や、起業こそが、成功にいたる唯一の道だ。そんな皆さんの厳しい叱声が私の耳に聞こえてきます。事実、アリストテレスの哲学に対しては、あまりにもそれが抽象的に過ぎ、リアルな裏付けを欠いているといった批判もなされてきました。しかし、言葉には、それが語られる歴史や背景があります。そして、そうした歴史や背景を越えて、つねに立ち返らなくてはならない言葉というものがあるのです。戦争や紛争に明け暮れる今の時代ほど、「中庸の精神」が求められる時代はありません。言い換えると、私たち人類、いや幸福を求めて生きる私たち一人ひとりがサバイブしていくために必要なことは、それこそ、一瞬でもいい、自分の心の振り子を止めることなのです。より正確に言えば、振り子を止める瞬間をもつべく努力し、「黄金の中庸」がどこにあるかを探し求める。世界のエリートがみずからの美意識を鍛えようとするとき、彼らは心の振り子を止め、いっさいの先入観から離れて、世界を見つめます。そしてそこに新しい可能性を探り当てる。それと同じことなのです。自分の人生を見つめ、なおかつ世界の平和を願うのであれば、まず、私たちが、「黄金の中庸」を手に入れなくてはなりません。それこそは、良識と呼ばれる「黄金の知性」。皆さんの心の振り子が止まったとき、世界は、さまざまな偽りのカーテンを透して、静かに、そして、慈しみに溢れる姿を現すにちがいありません。
皆さんが、「黄金の中庸」の意味を知り、健やかに人生を生きていくことを願いながら、学長の式辞を終えることにします。
2025年3月22日             
    名古屋外国語大学長       亀山 郁夫