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2021年度卒業式が挙行されました



式辞

名古屋外国語大学大学院修了式、学部卒業式にあたり、ひと言、お祝いと餞の言葉を述べさせてください。
私は最近、こんなふうな自問を重ねることが多くなりました。今、私たちが現に生きている二十一世紀というのは、人間にとって幸せな世紀なのか、それとも不幸せな世紀なのか。単に、コロナ禍だけが問題なのではありません。昨年夏の東京五輪にしろ、現に世界じゅうの人々がかつてない危機感にかられているウクライナ問題にしろ、このような状況を目にしながら、若い時代に思い描いた未来はこんなはずではなかった、世界は根本的に何かを失おうとしている気がしてならないのです。では、若い時代に夢見た未来と現在は、どこが違うのでしょうか。
ひと言で言って、テクノロジーの爆発的進化とグローバリゼーションです。「その考え方は古い」と叱られそうですが、「正義」の観念や、「ヒューマニズム」の理念が根本から壊れつつあるように思えてなりません。にもかかわらず、目の前には、厳かで、穏やかな表情を湛えた皆さんが座っておられる。この断絶とは、果たして何なのか。
若い時代に予測した文化的な豊かさの中身もまったく違っています。
いつの時代にも、滅びゆく文化というのは存在しますが、滅びゆく文化は、つねに、新しい種を次世代の土壌に残して滅んでいきました。私はクリスチャンではないのですが、福音書から引用します。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」
ここに記された「一粒の麦」は、文化のシンボルでもあり、文化の継承性という意味に通じています。

ところが、ある時点から、文化を「継承する」などといった言葉は、古臭い考えだとして、ほとんど顧みられることがなくなりました。たえざる「断絶」があるだけだ、たとえ一粒の麦が地に落ちて死のうと、べつに実を結ばずともかまわない。大地は、その懐からおのずと新しい種を育てていくにちがいない、とする考えです。この考え方には、一理ありますが、わずかながらも「驕り」が感じられます。私たちには、過去の歴史から継承すべきものが無数にあるはずですが、現実にネット上に溢れかえる情報にふりまわされ、まったく方向感覚を失っている。他方、人間の歴史は、過去の歴史からの学びを忘れたとき、大きな悲劇が生まれることを証明してきました。
私がいま、ここで「文化」とか「歴史」とか呼んだもの、それは、じつは、「教養」と同義語です。では、なぜ、今、ことさらに「教養」を話題にするのでしょうか。
皆さんは、ギリシャ神話の中にあるティトノスの神話をご存じでしょうか。ギリシャ神話の女神エーオースがティトノスという美少年に恋をし、その不死をゼウスに願いました。しかし、同時に老化を避けることを願わなかったため、ティトノスの身体はバッタのようにどんどんしなびていき、それでも死ぬことができなかったという話です。
皆さんは、まだ若く、「人生百年」時代といってもピンと来ないかもしれません。しかし、どれほど長い人生を保証されても、バッタのようにしなびたままで人生を生きながらえたいとは思わないはずです。いつまでも若くありたい、それは人間の普遍的な願いだからです。しかし若さとは、じつは、身体の若さにのみ限られるわけではないのです。人間として、いかに感情豊かに、人間らしい生命をどれだけ謳歌できているかどうか、そこに若さの意義は潜んでいます。
しかし、感情豊かに生きる、つまり「エモーショナルに生きる」とは、単に一人で楽しい、嬉しい、悲しいと感じるだけの一人よがりな生活を意味してはいません。また、喜怒哀楽をむきだしにして社会の不合理にぶつかれ、といった教えでもありません。一つのイメージとしては、より高い次元、より普遍化された次元で、「喜怒哀楽」を健やかに経験できる知性を持つ、それが「エモーショナルに生きる」ことの意味です。ただしこのような「幸せ」を手にできるには、若い時代からの、周到な心構えが必要です。すべての出発点には、むろん健康があります。そして次にくるのが、健康的な知性です。
つまり、世界の文化に対する幅広い関心であり、それによって培われた心の土壌です。小説でも、絵画でも、音楽でも、映画でも、あるいは日本の戦国時代の歴史でも、はたまた、天文学の世界、科学の未来でもよいでしょう。「人生百年」と言われる長い人生を創造的に生き抜くには、何かしら過去の力、ないしは普遍的な力、もっといえば、人類が生み出した、そして現に生み出しつつある知恵や伝統の助けを借りる必要があるのです。周囲の人から、教養人として尊敬を得るには、自分の長い人生のなかで、つねに問題意識をもって自分を高める努力をしてください。人類の文化遺産は、ただむだに蓄積されているわけではないのです。それはまさに皆さんが長い人生をサバイブするうえでよりどころとすべき最高の知的な糧なのです。
さて、皆さんは、今日のこの日で、大学での学びに区切りをつけました。しかし、修業の時代はまだまだ続きます。ただしこれからは、すべてが「独学」です。自分の直感にしたがい、新しい道を切り開く。私の友人で、社会的にも高い地位を経験した友人が、しみじみと語ってくれました。
「なんとか人生を勝ち抜いてこられたけれど、やり残したことがある。外国語をきちんと勉強したかった。一つの楽器をきちんと演奏できる人間になりたかった。」
「なんとか人生を勝ち抜いてこられたけれど、やり残したことがある。外国語をきちんと勉強したかった。一つの楽器をきちんと演奏できる人間になりたかった。」
贅沢な望み、というべきかもしれません。しかし遅くはないのです。たとえば、思いきって、アイスランド語を学んでみる。私は、幼い頃、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』を夢中になって読んだこともあり、アイスランドには特別の思い入れがあります。というわけで、これは、ほんの例え話にすぎないのですが、そんなふうな冒険心を持ち続けながら生きたいものです。人を、えっ、と驚かすことのできる教養。世界中から、瞬く間に仲間が集まってくるにちがいありません。有用か、有用ではないか、など、考える必要はありません。ひたすら無欲に自分の世界を広げていく。人間の可能性というのは、無欲になったときにはじめて大きく花開きます。周囲の人々の目がおのずとその姿に吸い寄せられる。なぜなら、無欲というのは、人間のもっとも高貴で理想的な状態の一つだからです。そのようにして、世界と新しい関係性を築き、知的に自分をリニューアルしていくことが大切です。今をときめくドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが、ある著書で述べています。人間にはそれぞれ運命によって定められた「幸福のゾーン」がある、それを見つけることが幸福につながる道だ、と。いえ、違うのです。「幸福のゾーン」は、気持ちと心がけ、そして無欲な努力次第でいくらでも広げることができるのです。
皆さんがより広い「幸福のゾーン」で幸福になられることを祈りつつ、大学院修了式、卒業式の式辞といたします。


2022年3月22日             
    名古屋外国語大学長       亀山 郁夫