卒業生・大学院修了生へのメッセージ
この春、社会人として広く世界に飛び立たれる卒業生、大学院修了生の皆さん、また、さらなる学究の意欲に燃えて進学の道に入られる皆さん、それぞれの旅立ちにあたり、ひと言、餞の言葉を述べたいと思います。
私たちはいま、二〇一一年三月以来といえる厳しい現実に立たされており、何かしら言葉を飾って、みなさんを激励する言葉が見当たりません。むろん、すべての源は、新型コロナウィルスによるパンデミック化です。世界の人々を捉える不安は、留まるところを知りません。ただし、冷静に考えるなら、今、私たちが経験しつつあるこの世界的な災厄こそ、私たち人類が直面する地球環境の劇的変化とともに、自らの生き方を根本から考えなおす、最大の機会であることも間違いないのです。
ご承知のように、パンデミックの歴史は古く、人類が根絶できた唯一の感染症である天然痘以来、ペスト、スペイン風邪、そして直近では、二十一世紀初頭に流行したSARSに遡ることができます。人類の医学は、まさに極小の敵ウィルスとの闘いをとおして前進してきたとさえいえる側面もあるのです。
私が今ここで引用するのは、動物行動学者リチャード・ドーキンスの言葉です。
「すべての生物は、自己の成功率を他者よりも高めるために利己的にふるまう」。
私が今ここで引用するのは、動物行動学者リチャード・ドーキンスの言葉です。
「すべての生物は、自己の成功率を他者よりも高めるために利己的にふるまう」。
ここでドーキンスのいう「自己の成功率」とは、生存率と繁殖率のことです。すべての生物が、自らの生存率と繁殖率を高めるため、徹底して自らのエゴを優先する、砕いていえば、がむしゃらな行動に出るとドーキンスは言います。むろん、コロナウィルスも例外ではなく、それどころかむしろ最強のライバルとして人類と苛烈な競い合いを演じてきたといえるでしょう。ここで見逃してはならないのは、この闘いが、じつは、それぞれの時代におけるグローバリゼーションと期を一にして起こってきた事実です。パンデミックの歴史は、戦争を含む、大規模な人間の移動すなわちボーダレス化とともに拡大していった歴史でもあるのです。
他方、次のような見方もできるでしょう。グローバリゼーションとともに、私たち人類は、「成功率」という生物的本能に目覚め、同じ人類という枠のなかで、それぞれの地域が、エゴむき出しのサバイバル闘争を開始したということ。そして今回のパンデミックにおいても、最初にむきだしになったのが、国家のエゴでした。その結果、コロナウィルスとは別種のウィルスもまた拡散しはじめたのでした。すなわち、「差別」という名のウィルスです。咳ひとつが、侮蔑や差別の対象となるような事態です。「差別」には、自己を守りたいという極端な防衛本能が働いています。恐るべき事態と言わなくてはなりません。
しかし、むろん、いずれそれも時間の問題となることでしょう。なぜなら、世界全体がコロナウィルス化すれば、もはや国家エゴ、地域エゴの介在する余地はなくなり、それ自体が人類全体の運命として自覚されるはずだからです。今回のウィルス禍は、人類、国家、個人のいずれのレベルにおいても、エゴ中心の世界観がいかに空しいかを振り返る良い機会です。むろん、エゴが、人類、国家、個人それぞれが生き延びるために不可避の精神的エネルギー源であることは確かです。しかし、その無益性、危険性にも怠りなく注意を向ける冷静さもまた不可欠です。
では、二つのウィルスが蔓延するなかで、どう行動すべきなのか。むろん、自分たちの手でこの空前の禍から自分を守りぬかなくてはなりません。自分を守ることが、社会を、そして世界を守ることにもつながるのですから。他方、「差別」というウィルスから身を守るには、どうすればよいでしょうか。そのために求められるのは、人類、社会、個人を見つめる知性と他者への思いやりです。といっても決して大げさなことではありません。言語や宗教を異にする身近な他者の立場に身を置くささやかな努力さえ怠らなければ、それでよいのです。また、今回のウィルス禍で、わが身の安全を顧みることなく、治療の現場に立った人たちがいたことを思い出しましょう。国と人間の安全への思いと、自己犠牲の精神とが一つとなって、彼らの勇気ある行動は生まれました。自己の「成功率」を高めるばかりではなく、自己を犠牲にするという精神性の持ち主も、この世界にはかぎりなく存在します。どうかそのことを忘れないでほしいと思うのです。そして自己犠牲の精神もまた、まさに人類が授かったかけがえのない生物学的な本能の一つであることを。
そして、いずれ嵐が去るときが来るでしょう。ありがたいことに、若い皆さんは、このパンデミックを乗りきるだけの十分な体力も免疫力も持ち合わせています。しかし、真の免疫力が試されるのは、むしろこの嵐の後なのです。この嵐の後に本格的にはじまる社会生活では、このパンデミックに劣らず厳しい試練が皆さんを待ち受けています。それぞれの現場で、皆さんの真の意味での免疫力が試されるときが来る。それこそ、精神の免疫力、ストレスそのものを跳ね返す力です。医学の世界で「自然免疫」と呼ばれる仕組みは、私たちが日々の社会生活を営んでいくうえで最低限必要な判断力や忍耐力が該当するでしょう。しかし、より高度のストレスには、それなりの賢さと強さによる対応が求められます。それを具体的にイメージするなら、自らの心のうちでそのストレスを上手に包み込み、排除できる力です。免疫学の比喩を借りて、マクロファージ(大食細胞)の強さとでも呼べばよいでしょうか。それこそが真の逞しさ、だと私は考えるのです。ストレスは、人間が生きていく上で不可欠の必要悪です。それなくしていっさいの進歩、前進はありません。それなればこそ、そのストレスを巧みに包囲し、排除できる強い精神力が求められるのです。
今日のこの卒業生・大学院修了生に向けたメッセージの冒頭で、私は、何かしら言葉を飾ってみなさんを激励する言葉が思い浮かばない、と申しました。しかし今、私のなかに、先の「マクロファージ」という語に導かれて、一つの確信のようにして生まれ出ようとする希望のイメージがあります。それが、「包み込む力」です。この「包み込む力」こそ、私たち現代人が、あまり口にしなくなった「愛」と同義語かもしれないという予感。では、「愛」とは何なのでしょうか?「愛」とは、むろん、精神の熱をエネルギー源として、時として臆病さ、時として冷静さ、そして時として嫉妬へと姿を変え、最終的には「包み込む力」へと変容する人間の成熟した精神力を言います。マクロファージの包み込み、排除する力とは異なる、むしろ異なる他者を自分の心のなかに溶かし込む力です。では、その力をどうやって手に入れるのか、と問われたなら、私は単純にこう答えようと思います。それこそ「他者への共感力」と「批判的思考力」そのものだと。答えとして抽象的すぎると感じられる方もおられるでしょう。しかしこの二つこそは、私たち名古屋外国語大学が、つとにその教育の原点に置き、涵養をめざしてきた力にほかなりません。いつしか、この答えの意味を、皆さんが身をもって発見できる日が訪れることを願ってやみません。
さて、皆さんが今日別れを告げる名古屋外国語大学は、一昨年、創立三十周年の記念すべき一年を終え、昨年四月から新たな自立のステージに立ちました。しかし本学が真の「自立」をとげることができるかどうかは、じつは、皆さんの不断の活躍にかかっているのです。皆さんの充実した人生と活躍こそが、私たちの大学の歴史を築いていきます。どうか、私たちのこの大学に「学んだ」という誇りを、いつまでも忘れることなく生きてください。そして私たち教職員一同も、皆さんにこの大学で学べてよかった、と一生思っていただける大学であり続けるよう努力を積み重ねていきます。
最後に、何より、皆さん一人ひとりのご健康とご成功、幸多き未来を祈りつつ、学長のメッセージといたします。
最後に、何より、皆さん一人ひとりのご健康とご成功、幸多き未来を祈りつつ、学長のメッセージといたします。
二〇二〇年三月二十二日
名古屋外国語大学長 亀山 郁夫
名古屋外国語大学長 亀山 郁夫