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2021年度入学式が挙行されました



入学式告辞

今日、晴れて入学の日を迎えられた皆さんに、名古屋外国語大学を代表してひと言お祝いを申し上げます。今日から皆さんの新しい学び舎となる名古屋外国語大学は、2018年に創立三十周年を迎え、本格的な「自立」の時代に入りました。しかし、大学それ自体の「自立」にも増して大切なのは、今日、入学を許可された皆さん一人ひとりの「自立」です。学長として、大学院、学部、学科を問わず、皆さんに寄せる期待は同じです。ひと言で、真の意味で「成熟」の証となるものを手に入れてほしい。「成熟」といっても、理解は人それぞれですが、私が今イメージする「成熟」とは、端的に、心と身体が一つとなる、理想的な姿です。しかしこの定義ではあまりに抽象的すぎ、意味の核心をとらえているとは言えません。なぜなら、成熟とは、結果であるよりも、むしろ絶え間ない日々のプロセスをいうからです。「今日、ぼくは成熟した。」「昨日、私は成熟した。」といった言い方は、「成熟」が本来意味するものと著しく相反するもののように思えます。最近、「成熟」をめぐる一冊の本を読みました。内田樹(うちだたつる)という人の書いた『困難な成熟』という本です。その中に次のような印象的なくだりがありました。「ある日気がついたら、前よりも大人になっていた。そういう経験を積みかさねて、薄皮を一枚ずつ剥いでゆくように人は成熟していく」。ある日、自分が周囲からこれまでとは違った目で見られていることに気づく。「成熟」の「証」とはそのようなものです。その瞬間を重ねて、さらなる「自立」、さらなる「成熟」の道を歩んで行ってほしいと願っています。
さて、今日は、もう一つ、私が日頃、考えていることを皆さんにお伝えしたいと思います。私たちはいま、日々、自分自身をソフトにさらけだしていくことが美徳とされ、逆に自分のプライバシーを固く守ろうとする人が「臆病者」のレッテルを貼られてしまう、そんな矛盾した空間に身を委ねています。ただ、これほどにも容易に、自己表現やコミュニケーションへの欲求を満たしてくれるメディアには、必ず落とし穴があります。ともすると、小さな「油断」が、あるいは不注意なひと言が、自分だけではなく他人の運命をも変えてしまう事例が少なからずあるのです。では、なぜ、そうした重大な「失言」が後を絶たないのでしょうか。むろん、一瞬の「油断」、一瞬の「傲り」が原因です。
しかし、油断や傲りは、だれの身にも起こりうることですから、それを一方的に責めることはできません。しかもとくに「傲り」は、その人が勝ち得た知性の高さから生じる場合が少なくないからです。そこで、私はいま、「プライド」という言葉の大切さに注目するのです。思うに、優れた知性の持ち主とは、「プライド」のもつ恐ろしさに気づいている人間ではないでしょうか。ご存じのように、「プライド」という言葉は、微妙でかつ複雑な広がりをもつ言葉です。自慢、得意、満足、自尊心、誇り、うぬぼれ、傲慢、思い上がり、これらの意味が一つの言葉で表現されているのですから、ひと言「プライド」という言葉を発するときは、しっかりとそのニュアンスの違いを見究めなくてはなりません。逆の言い方をすると、これだけ幅の広い意味を含みこんだ「プライド」とは、優れて人間的な心の真実を伝える言葉でもあるということです。たとえば、そのなかの一つ、「傲り」をもっているがゆえに見えてくる世界の眺め、というものがあります。皆さんにもきっと、一度や二度、傲りたかぶった経験があることでしょう。では、そうした経験をとおして見えてくる世界は、どんな姿をしていたでしょうか。この世界に生きる人間の愚かさ、はかなさ、つまらなさ。しかし忘れてはならないのは、たとえどんなに傲りたかぶった心の持ち主でも、いつかどこかの段階では、かならず膝を屈した経験があるということ。「プライド」が高ければ、跪くべき対象も、おのずから、高く、
大きくなります。
五十年前の話をします。私は、大学入学と同時に、ひとりの優れた先生と出会い、その先生の導きのもとで歩んできました。高校時代にすでにその先生の存在を知り、その先生のもとで学びたいと思って大学を選びました。その先生は、今年、生誕二百年を迎えるロシアの文豪ドストエフスキーが書いたある長編小説の優れた翻訳で知られる人です。いま、ここでその小説の名前を明かすことはせず、たんに「世界最高峰の文学」とだけ申し添えておきましょう。私がその先生に出会った当時、先生はまだ三十代後半でした。入学式後のオリエンテーションの席で、私は、黒縁の眼鏡をかけたその先生の姿を胸の高鳴りとともに見つめ続けていました。それから五十年、先生との繋がりは、先生が亡くなられるその日まで途絶えることなく続きました。ただしその繋がりは、ほのぼのとした、と形容できる類のものではなく、まさに日々、闘いの連続でした。認められたいという思いが強くなればなるほど、闘いは厳しさを増していきました。その先生が亡くなられたのが、2004年。思えば、最初の出会いからその日まで、私は、一度として小説の翻訳を自ら望むことはありませんでした。天才的な翻訳者として知られる先生から、厳しい叱責を浴びせられることを恐れていたからです。ところが、先生が亡くなられてまもなく、思いもかけず、一つの貴重な仕事が巡ってきました。なんと先生が訳された長編小説の新たな翻訳です。その仕事は、言うまでもなく、先生を乗り越えるための凄まじい試練と化していきました。しかし、二年半に及ぶ格闘を終えた私の心に、先生を「乗り越えられた」という実感はありませんでした。結果として、むしろ逆に、大きく水を開けられたという思いのほうが強かったのを記憶しています。先生の四十歳の仕事に、五十八歳の私が及ばなかったという残念な思い。先生の仕事は、それほどにも高い壁だったのです。ただ私は、その現実を受け入れ同じロシアの詩人の言葉で自分をなぐさめました。「生きることは簡単だ。自分よりも優れている人間がいるということを知るだけでいい。それだけでも人生はとても生き易いものになる(Жить просто: надо только понимать, что есть люди, которые лучше тебя. Это очень облегчает жизнь.)」。しかし、これは、あくまでも私のごく個人的なエピソードにすぎません。
今日、この晴れの日に、ここにおられる皆さんに伝えたいと思うことは、何より私たちの大学のもつ「大きなもの」、「高い壁」に出合ってほしいということです。人生の終わりまで付きあい、そしてそれと闘えるような価値ある何かに。むろん、芸術でも、スポーツでも、趣味の世界でもいいのです。しかし、できれば、先生の学問、人間性、そして世界観をその出合いの手掛かりにしてほしい。ただし、「大きなもの」「高い壁」と出合うには、それなりに覚悟が必要です。受け身のままでは、けっして真の意味での出合いは訪れてきません。準備が必要なのです。長い準備が。そしてテーマを探し出さなくてはなりません。学問のテーマと人生のテーマの二つを。「求めよ、さらば与えられん」という有名な福音書の言葉がありますが、これは、宗教やそれぞれの信念を越えた普遍的な真実です。皆さんの、若い「誇り」と若い「傲り」を武器に、「大きなもの」「高い壁」に挑んでください。私は若い、私は強い、私にはできる、それくらいの「プライド」をもって明日からの大学生活をスタートさせてください。四年後、再びこの場で皆さんとお会いするとき、皆さんはきっと、自分がこれまでとは違った目で見られている、四年前の自分と何かまるでちがう、そんな特別な自分に気づいているはずです。それこそがまさに冒頭で述べた「成熟」の「証」となるものなのです。その時、その発見の瞬間への熱い期待をこめて、学長の告辞といたします。
 2021年4月1日          
名古屋外国語大学長  亀山 郁夫