告辞「欠伸の効用、または、批判的思考力と共感能力について」
今日、晴れて入学の日を迎えられた皆さんに、名古屋外国語大学を代表して心からお祝いを申し上げます。また、今日、本学にお越しくださいました保護者の皆さま、お越しいただけなかった皆さまにも、改めて心より御礼を申し上げます。
今日の告辞は、新入生の皆さんにとって新たな学舎となる名古屋外国語大学での初講義です。どうかそのつもりでしっかりと耳を傾けていただけると幸いです。ただし、退屈しましたら、どうぞ遠慮なく欠伸をなさってください。欠伸は、むしろ、大歓迎です。
さて、いきなり私事になりますが、私は、昨年の二月、後期高齢者に仲間入りしました。男性の平均寿命は八十五とされていますから自分はまだ若い、まだまだやれるなどと胸を張っていえる年齢ではありません。「老い」それ自体は、やはり悲しい現実です。しかし皆さんが想像されるほど、暗くはないのです。なぜなら、年を重ねるにつれ、これまで気づくことのなかったさまざまな光景が、思いがけず鮮やかな彩りをもって迫ってくるからです。生命あるものすべてへの慈しみの情もますます研ぎ澄まされていくかのようです。ただ、残念なのは、私たちが現に生きて立っているこの地球社会が今、直面している、さまざまなレベルでの分断の現実です。人類の長い歴史のなかで、いつの世にも分断はありましたが、戦後生まれの私の経験に照らす限り、二十一世紀も四半世紀を経た今ほど、悲哀に満ちた時代はありません。そして今、さらに懸念を感じることがあるとすれば、それは、今日ここに集う新入生の皆さんが、そうした地球社会の不幸に必ずしも真摯な関心を寄せてはいないかもしれないという恐れ、可能性です。たとえば、常時、スマホをのぞいている限りにおいて、世界それ自体が極端にミニアチュア化され、一見、何ごともなく平和を享受できているかのような錯覚に陥ります。ウクライナにしろ、ガザにしろ、地理的に遠く離れた世界での出来事であるだけに、なかなかリアルな現実としてはこれを受け止められなくなっている。
そして、分断は、私たち日本に暮らす人々においても、世代間戦争のようなかたちで進行しています。高齢者が生きた過去のモラルと、現代の若い世代のモラルとの間に、著しいかい離が生じつつあるのです。では、どうすれば、このかい離を埋めることができるのか。いや、埋める必要などない、という考え方も一理ありそうです。なぜなら、世界のルールは根本から変わりつつあるのですから。老いと若きは、互いに背を向け、干渉し合うことなくそれぞれの幸せを心に描きながら生きていく。それも悪くない構図です。しかし、受け継がれるべき知性は、しっかりと受け継いでいかなくてはなりません。
さて、ここまでは導入部で、次からが本論ということになります。老いたる世代が若い世代に伝えるべき大切な心構えとして皆さんの胸に刻んでほしいことがあります。それが、理性的な裏付けのある行動原理です。私は、それを日頃、「クリティカル・シンキング」という用語で呼んでいます。
日本語に訳せば、「批判的思考力」。わかりやすく言えば、世界を、あるいは物事を、さらには自分自身を批判的な目で見る能力です。京都大学のある先生の説明によると、このクリティカル・シンキングを構成する要素として次の三つが挙げられるということです。
一、「証拠に基づく論理的で偏りのない思考」。何か具体的に物事を考えるときには、常に証拠、すなわちエビデンス、つまり具体的な裏付けをもって、偏見に惑わされることなくアプローチしなさい、ということです。
二、「リフレクション」。これは、内省、もしくは内省的思考と訳される英語ですが、端的には、自らへの気づきです。物事を考えるとき、あるいは、他者を批判するとき、必ずや自らの立場を良心の鏡に照らし、クリティカルに振り返りなさい、ということ。
そして三が、問題解決に役立つジェネリックスキル。少し難しい言葉ですね。つまり、他者に対する批判を単なる批判に終わらせることなく、よりクリエイティヴな次元へと自分の考えを導いていくための努力です。言い換えると、問題を正しい解決へと導くポジティヴな能力を身に付けることが必要だ、ということです。たんなる言いっぱなしではだめ。責任をもって問題解決にあたり、それを広く社会に役立てることのできる汎用的な能力。
一、「証拠に基づく論理的で偏りのない思考」。何か具体的に物事を考えるときには、常に証拠、すなわちエビデンス、つまり具体的な裏付けをもって、偏見に惑わされることなくアプローチしなさい、ということです。
二、「リフレクション」。これは、内省、もしくは内省的思考と訳される英語ですが、端的には、自らへの気づきです。物事を考えるとき、あるいは、他者を批判するとき、必ずや自らの立場を良心の鏡に照らし、クリティカルに振り返りなさい、ということ。
そして三が、問題解決に役立つジェネリックスキル。少し難しい言葉ですね。つまり、他者に対する批判を単なる批判に終わらせることなく、よりクリエイティヴな次元へと自分の考えを導いていくための努力です。言い換えると、問題を正しい解決へと導くポジティヴな能力を身に付けることが必要だ、ということです。たんなる言いっぱなしではだめ。責任をもって問題解決にあたり、それを広く社会に役立てることのできる汎用的な能力。
さて、この三つのなかで、私が特に大切だと考えるのが、二番目の「リフレクション」なんですね。内省または内省的思考。 自分の考え、自分の感じ方をしっかりと吟味しようとする態度です。なぜなら、このリフレクションにおいて、批判的思考は初めて、他者に対するリスペクトないしは、優しさ、慈しみの根に触れることができるからです。
そこで私は、今日、この場で、このクリティカル・シンキングに対置するもう一つの大切な概念を「リフレクション」とは別の概念で提示したいと思うのです。それが、「エンパシー」です。皆さんは、おそらく、「シンパシー」という言葉をご存じだと思います。同情とか、共感と訳される英語で、「ぼくは彼にシンパシーを感じる」といった表現で使われます。では、同じ共感力を意味する「エンパシー」という言葉はどうでしょうか。初めて、という方は、どうか、今、「エンパシー」と胸の内で呟いてみてください。
さて、先ほど述べたクリティカル・シンキングの原点が、「批判」にあるとすれば、まさにその対極にあるのが「共感」です。批判的思考と共感的能力、それは一見、対立的な位置関係にあるかのように見えますが、私が求める理想では、それらは一体化しているのです。一人の人間のなかで、「批判」と「共感」の二つの能力が、バランスよく保たれている状態が理想的です。
そこで私は、今日、この場で、このクリティカル・シンキングに対置するもう一つの大切な概念を「リフレクション」とは別の概念で提示したいと思うのです。それが、「エンパシー」です。皆さんは、おそらく、「シンパシー」という言葉をご存じだと思います。同情とか、共感と訳される英語で、「ぼくは彼にシンパシーを感じる」といった表現で使われます。では、同じ共感力を意味する「エンパシー」という言葉はどうでしょうか。初めて、という方は、どうか、今、「エンパシー」と胸の内で呟いてみてください。
さて、先ほど述べたクリティカル・シンキングの原点が、「批判」にあるとすれば、まさにその対極にあるのが「共感」です。批判的思考と共感的能力、それは一見、対立的な位置関係にあるかのように見えますが、私が求める理想では、それらは一体化しているのです。一人の人間のなかで、「批判」と「共感」の二つの能力が、バランスよく保たれている状態が理想的です。
たとえば、本学のウエブサイトに掲載されている学長の言葉のなかで、本学がめざす人材育成像にからめて次のように記しています。
「共感力は、文学や芸術に深い造詣を持ち、人々と素直に喜怒哀楽を分かち合い、同時に地球社会のマクロな動きについて語ることのできる、《世界人材》の真髄ともいうべき資質です」
しかし、このウエブサイト用の文章を用意していたとき、私は、ここで使用している共感力の意味を正しく理解してはいませんでした。つまり、共感力といっても厳密には、二つの立場があること、その二つの違いについて、必ずしも正確な理解を持ち合わせてはいなかったということです。何よりも、この文章で、共感力を「資質」と呼んでいるのが、その証拠です。そもそも、共感力なんて、生まれつきのもの、天性のもので、学んで得られる種類の能力ではない、と、心のどこかで考えていたような気がします。優しい人もいれば、冷たい人もいる。すべて生まれつき授かった資質なので、能力なんかではない、と。そもそも、同情、哀れみ、同調、同期、共鳴といった心の状態は、すべてシンパシー(sympathy)の一言で片がつくではないか。それなのに、なぜ、エンパシーなどという、耳慣れない言葉を今さら持ちだすのか。
「共感力は、文学や芸術に深い造詣を持ち、人々と素直に喜怒哀楽を分かち合い、同時に地球社会のマクロな動きについて語ることのできる、《世界人材》の真髄ともいうべき資質です」
しかし、このウエブサイト用の文章を用意していたとき、私は、ここで使用している共感力の意味を正しく理解してはいませんでした。つまり、共感力といっても厳密には、二つの立場があること、その二つの違いについて、必ずしも正確な理解を持ち合わせてはいなかったということです。何よりも、この文章で、共感力を「資質」と呼んでいるのが、その証拠です。そもそも、共感力なんて、生まれつきのもの、天性のもので、学んで得られる種類の能力ではない、と、心のどこかで考えていたような気がします。優しい人もいれば、冷たい人もいる。すべて生まれつき授かった資質なので、能力なんかではない、と。そもそも、同情、哀れみ、同調、同期、共鳴といった心の状態は、すべてシンパシー(sympathy)の一言で片がつくではないか。それなのに、なぜ、エンパシーなどという、耳慣れない言葉を今さら持ちだすのか。
ご存じのように、sympathy のsym とは、「同じ」を意味する接頭辞です。pathy は、patos すなわち、苦悩、強い感情、災難、苦難を表すギリシャ語が語源です。「感情を同じくする」という意味ですね。それに対して、エンパシーは、接頭辞からして違います。「エン」とは、英語の、「イン」、ないし「イントゥー」を意味している。つまり、相手の感情のなかに入る、という意味になります。しかしこうして、接頭辞の意味にまで遡って正しく理解しようとしても、日本語に訳すると結局のところは、同じ「共感」という言葉に収まってしまう。では、エンパシーとシンパシーを使い分ける英語圏の人々は、この違いをどう理解しているのか。日本語の訳のレベルでこれ以上議論することは無意味だと考え、何冊かの本にアプローチすることにしました。
そこで出合ったのが、ブレイディみかこさんという小説家の書いた『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』という本です。「他者の靴を履く」。皆さんは、経験がおありでしょうか。お母さんのおしゃれな靴を履いて外出した、わざと弟の靴を履いて遊びに出かけた。その履き心地の良さ、あるいは、悪さ。そして、うまくサイズがフィットしたときの快適さ、そして後ろめたさ。思うに、この微妙な違和感が大切なのです。しかも当人は、最初は履き心地がよいと感じている靴が、いつかは、いやな靴擦れを起こすかもしれないというところまで予感している。
実はこの「他者の靴を履く」という表現は、英語で、to put yourself in someone's shoes といい、たとえば、会話などで、please put yourself in my shoes! といったかたちで用いられる慣用句なのですね。直訳すると、「私の靴にあなた自身を置いてください」となりますが、この訳では、意味は通じません。最適の訳は、「こっちの身にもなってよ!」でしょう。ブレイディみかこさんは、ここに、エンパシーの真実が隠されているとみるのです。そしてより正確な定義を求めて、『オックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズ』のサイトに向かいました。そこには、端的に、次のような定義が書いてありました。
エンパシー「他者の感情や経験などを理解する能力」
シンパシー「誰かをかわいそうだと思う感情」
ここまでくれば、意味の違いは明確です。ひと言で言うなら、エンパシーとは「理解力」であり、シンパシーは、「感情力」だということです。きわめて合理的な説明です。
そこで出合ったのが、ブレイディみかこさんという小説家の書いた『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』という本です。「他者の靴を履く」。皆さんは、経験がおありでしょうか。お母さんのおしゃれな靴を履いて外出した、わざと弟の靴を履いて遊びに出かけた。その履き心地の良さ、あるいは、悪さ。そして、うまくサイズがフィットしたときの快適さ、そして後ろめたさ。思うに、この微妙な違和感が大切なのです。しかも当人は、最初は履き心地がよいと感じている靴が、いつかは、いやな靴擦れを起こすかもしれないというところまで予感している。
実はこの「他者の靴を履く」という表現は、英語で、to put yourself in someone's shoes といい、たとえば、会話などで、please put yourself in my shoes! といったかたちで用いられる慣用句なのですね。直訳すると、「私の靴にあなた自身を置いてください」となりますが、この訳では、意味は通じません。最適の訳は、「こっちの身にもなってよ!」でしょう。ブレイディみかこさんは、ここに、エンパシーの真実が隠されているとみるのです。そしてより正確な定義を求めて、『オックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズ』のサイトに向かいました。そこには、端的に、次のような定義が書いてありました。
エンパシー「他者の感情や経験などを理解する能力」
シンパシー「誰かをかわいそうだと思う感情」
ここまでくれば、意味の違いは明確です。ひと言で言うなら、エンパシーとは「理解力」であり、シンパシーは、「感情力」だということです。きわめて合理的な説明です。
では、「他者の靴を履く」ことが、なぜ「相手の立場に立って考える」という意味に結びつくのか。快適な他人の靴の例もあるではありませんか。そんな疑念にかられ、私は興味の赴くままに、調査を続けました。正直に申し上げると、ChatGPTに相談を持ちかけてみたのです。
質問。「英語には、to put yourself in someone's shoes という慣用表現がありますが、その表現の由来を教えてください」。
“To put yourself in someone's shoes" という表現は、「他者の立場になって考える」「相手の気持ちを理解する」という意味です。この慣用表現の由来は、アメリカ先住民のことわざにあると言われています。 “Don't judge a man until you have walked a mile in his moccasins."(「人を判断する前に、その人のモカシンを履いて一マイル歩いてみなさい」)
ChatGPTの説明は続きます。「このことわざは、相手の立場や経験を理解しないまま判断することの危険性を説いたものです。モカシンとは、アメリカ先住民が履いていた革靴のことで、『モカシンを履いて歩く』という比喩は、相手の人生や苦労を実際に体験してみることの重要性を示しています」
さらに説明を読んでいくと、十九世紀に入って、このことわざが英語圏に広まり、 “moccasins" がより一般的なshoes に置き換えられたというわけですね。ChatGPTの答えは、実に的を射たものでしたが、それでも私は不満でした。それには理由があります。ファッションに疎い私の頭に、モカシンのイメージそのものがどうしても浮かんでこない。そればかりか、アメリカ先住民にとっての一マイルという長さがどれくらいの距離感覚を意味するかもわからない。そこで、さっそく「モカシン」をグーグルの検索にかけてみました。すると、何と、日頃、私が愛用している革紐のないローファーの画像が出てくるではありませんか。というわけで、私は、今日、冠婚葬祭用の黒の革靴ではなく、敢えてローファーの靴を履いて壇上に上がりました。ただし、これは、他人の靴ではなく、あくまでも私の靴ですから、靴擦れを起こす心配はありません。
さて、英語学者ではない私に、今ここで、このChatGPTの答えの信ぴょう性を確認するすべはありません。しかし、アメリカ先住民の履いていた革靴が、一般的なシューズに変わったという説明だけは、ごく当たり前に納得できるものです。そうはいえ、アメリカ先住民がかつて履いていた「モカシン」の実物を目にすることなく、この慣用表現の真の意味には辿りつけないような気がしたことも確かです。学問というのは、あるいは研究というのは、実はこんなふうな小さな疑問から始まるのですね。
さて、今日の、話題の種は尽きたようです。私は、今日から大学生となった皆さんに、大学生として学び取ってほしい二つの基本精神のようなものについてお話をしました。簡単にまとめれば、クリティカル・シンキングすなわち「批判的思考力」と、エンパシーすなわち「共感能力」を、バランスよく培っていこうということです。そしてこの二つの能力が一体と化したときに、おそらく人は、一人の成熟した大人として、周囲から一目置かれる存在になるということです。
そして今日の告辞の締めくくりとして、最初に、「欠伸はむしろ大歓迎です」、と述べたその理由について補足しておきましょう。4月1日。待望の春が訪れました。「春眠、暁を覚えず」ということわざもあります。皆さんは、おそらく、この告辞の間に、一度か二度、欠伸をかみ殺したにちがいありません。しかし、それを大っぴらに動作で示すことはできなかったと思います。今日から同じキャンパスの仲間となったとはいえ、親しき仲にも礼儀は必要ですから。ところが、今日のこの告辞の話題となった共感能力すなわち「エンパシー」と、欠伸との間には、どうやら浅からぬ縁があるらしいのです。イタリアのある動物行動学者の調査によると、他者(ひと)が欠伸するのを見て、自分も欠伸してしまう人ほど、共感能力つまりエンパシー能力が高いことが証明されています。また、別の調査では、見知らぬ人の欠伸よりも、親しい人の欠伸のほうが伝染しやすいという結果もあります。こちらは、親しき仲にも欠伸あり。どうか皆さん、毎朝、友だちと顔を合わせたら、遠慮なく大きく欠伸をし合い、明るい声で「おはよう」を掛け合いましょう。そうして末永く、エンパシー溢れる友情を築いていきましょう。
以上をもって学長の入学式告辞と致します。
質問。「英語には、to put yourself in someone's shoes という慣用表現がありますが、その表現の由来を教えてください」。
“To put yourself in someone's shoes" という表現は、「他者の立場になって考える」「相手の気持ちを理解する」という意味です。この慣用表現の由来は、アメリカ先住民のことわざにあると言われています。 “Don't judge a man until you have walked a mile in his moccasins."(「人を判断する前に、その人のモカシンを履いて一マイル歩いてみなさい」)
ChatGPTの説明は続きます。「このことわざは、相手の立場や経験を理解しないまま判断することの危険性を説いたものです。モカシンとは、アメリカ先住民が履いていた革靴のことで、『モカシンを履いて歩く』という比喩は、相手の人生や苦労を実際に体験してみることの重要性を示しています」
さらに説明を読んでいくと、十九世紀に入って、このことわざが英語圏に広まり、 “moccasins" がより一般的なshoes に置き換えられたというわけですね。ChatGPTの答えは、実に的を射たものでしたが、それでも私は不満でした。それには理由があります。ファッションに疎い私の頭に、モカシンのイメージそのものがどうしても浮かんでこない。そればかりか、アメリカ先住民にとっての一マイルという長さがどれくらいの距離感覚を意味するかもわからない。そこで、さっそく「モカシン」をグーグルの検索にかけてみました。すると、何と、日頃、私が愛用している革紐のないローファーの画像が出てくるではありませんか。というわけで、私は、今日、冠婚葬祭用の黒の革靴ではなく、敢えてローファーの靴を履いて壇上に上がりました。ただし、これは、他人の靴ではなく、あくまでも私の靴ですから、靴擦れを起こす心配はありません。
さて、英語学者ではない私に、今ここで、このChatGPTの答えの信ぴょう性を確認するすべはありません。しかし、アメリカ先住民の履いていた革靴が、一般的なシューズに変わったという説明だけは、ごく当たり前に納得できるものです。そうはいえ、アメリカ先住民がかつて履いていた「モカシン」の実物を目にすることなく、この慣用表現の真の意味には辿りつけないような気がしたことも確かです。学問というのは、あるいは研究というのは、実はこんなふうな小さな疑問から始まるのですね。
さて、今日の、話題の種は尽きたようです。私は、今日から大学生となった皆さんに、大学生として学び取ってほしい二つの基本精神のようなものについてお話をしました。簡単にまとめれば、クリティカル・シンキングすなわち「批判的思考力」と、エンパシーすなわち「共感能力」を、バランスよく培っていこうということです。そしてこの二つの能力が一体と化したときに、おそらく人は、一人の成熟した大人として、周囲から一目置かれる存在になるということです。
そして今日の告辞の締めくくりとして、最初に、「欠伸はむしろ大歓迎です」、と述べたその理由について補足しておきましょう。4月1日。待望の春が訪れました。「春眠、暁を覚えず」ということわざもあります。皆さんは、おそらく、この告辞の間に、一度か二度、欠伸をかみ殺したにちがいありません。しかし、それを大っぴらに動作で示すことはできなかったと思います。今日から同じキャンパスの仲間となったとはいえ、親しき仲にも礼儀は必要ですから。ところが、今日のこの告辞の話題となった共感能力すなわち「エンパシー」と、欠伸との間には、どうやら浅からぬ縁があるらしいのです。イタリアのある動物行動学者の調査によると、他者(ひと)が欠伸するのを見て、自分も欠伸してしまう人ほど、共感能力つまりエンパシー能力が高いことが証明されています。また、別の調査では、見知らぬ人の欠伸よりも、親しい人の欠伸のほうが伝染しやすいという結果もあります。こちらは、親しき仲にも欠伸あり。どうか皆さん、毎朝、友だちと顔を合わせたら、遠慮なく大きく欠伸をし合い、明るい声で「おはよう」を掛け合いましょう。そうして末永く、エンパシー溢れる友情を築いていきましょう。
以上をもって学長の入学式告辞と致します。
2025年4月1日
名古屋外国語大学長 亀山 郁夫
名古屋外国語大学長 亀山 郁夫