被災したフィリピンの大学と大学生にスマイルを届けよう
2013年11月にフィリピンを襲った最大級の台風。被災した大学のため、津田教授を中心として、大学の学生/教員/職員が一丸となって実施した募金活動の様子です。
2013年11月にフィリピンを襲った最大級の台風。被災した大学のため、津田教授を中心として、大学の学生/教員/職員が一丸となって実施した募金活動の様子です。
2013年11月8日早朝(日本とフィリピンとの時差は、マイナス1時間)、フィリピン中部ビサヤ地方を、史上最大級の台風(30号、「ヨランダ」)が襲いました。
瞬間最大風速100メートルの暴風雨が吹き荒れ、木や壁がなぎ倒され、水鉄砲のような雨も重なり建物の屋根も窓もそのまま吹き飛ばされる勢いでした。また、レイテ島タクロバン市内には、3メートルほどの高潮も襲いかかりました。まるで津波のようなものでした。被害は甚大で、死者が1万人を超したとみられ、被災者は1,000万人すなわちフィリピン全人口の1割といった具合です。
そういった様子は徐々に報道されました。フィリピンは東南アジア諸国の中で日本に一番近い隣国ですし、日本に到来するほぼすべての台風は、フィリピン群島の東方沖で発生していますから、日本人にとってフィリピンのそのような自然災害は、決して「対岸の火事」ではありません。
以下は、私たちの手作り支援の具体例です。
現代国際学部 現代英語学科 学科長 津田守
瞬間最大風速100メートルの暴風雨が吹き荒れ、木や壁がなぎ倒され、水鉄砲のような雨も重なり建物の屋根も窓もそのまま吹き飛ばされる勢いでした。また、レイテ島タクロバン市内には、3メートルほどの高潮も襲いかかりました。まるで津波のようなものでした。被害は甚大で、死者が1万人を超したとみられ、被災者は1,000万人すなわちフィリピン全人口の1割といった具合です。
そういった様子は徐々に報道されました。フィリピンは東南アジア諸国の中で日本に一番近い隣国ですし、日本に到来するほぼすべての台風は、フィリピン群島の東方沖で発生していますから、日本人にとってフィリピンのそのような自然災害は、決して「対岸の火事」ではありません。
以下は、私たちの手作り支援の具体例です。
現代国際学部 現代英語学科 学科長 津田守
募金活動の経緯
その翌週、つまり台風から数日後、名古屋外国語大学での私の同僚より、「ゼミ生のひとりが、母親がフィリピン人でもあり、大変心配している。何かできないだろうか、と考えている」という話が、フィリピン研究を専門の一つとしている私の耳に入ってきました。
同じように、大学内の職員からも、被災者への同情と共感の表明が、直接私に届けられました。そのようなことから私に何かできることはないだろうかと思い、実行したのが、台風で被災した大学と大学生のための募金活動でした。ちょうど第2学期の最中ですし、私たちには救援隊を派遣したり、物資を届けたりは、すぐにはできません。そこで、できることとして、ともかく募金活動を始めようということになりました。
そのための準備会合を呼び掛けたところ、2,3日しか間がありませんでしたが、口コミだけで関心を持つ人たちが、一堂に集まったのです。台風襲来からちょうど10日後のことでした。それも、同じキャンパスにある3つの大学(名古屋外国語大学、名古屋学芸大学、名古屋学芸大学短期大学部)から学生、教員(3大学の学生部長を含む)、職員(学生課職員に加えて、国際交流部勤務のフィリピン人スタッフら)が40名ほどでした。
集まったのは、フィリピン人の母親を持つ学生たち、フィリピン語学留学やボランティア活動をしたことのある学生たち、フィリピンには行ったことはないボランティアサークルのメンバーたちなどなどでした。そこで、教職員学生から成る募金委員会が作られ、私が呼びかけ人代表となりました。なお、副代表となったのが、上記のフィリピン人スタッフでした。その打ち合わせ会合の様子は『中日新聞』によって報道されました。
同じように、大学内の職員からも、被災者への同情と共感の表明が、直接私に届けられました。そのようなことから私に何かできることはないだろうかと思い、実行したのが、台風で被災した大学と大学生のための募金活動でした。ちょうど第2学期の最中ですし、私たちには救援隊を派遣したり、物資を届けたりは、すぐにはできません。そこで、できることとして、ともかく募金活動を始めようということになりました。
そのための準備会合を呼び掛けたところ、2,3日しか間がありませんでしたが、口コミだけで関心を持つ人たちが、一堂に集まったのです。台風襲来からちょうど10日後のことでした。それも、同じキャンパスにある3つの大学(名古屋外国語大学、名古屋学芸大学、名古屋学芸大学短期大学部)から学生、教員(3大学の学生部長を含む)、職員(学生課職員に加えて、国際交流部勤務のフィリピン人スタッフら)が40名ほどでした。
集まったのは、フィリピン人の母親を持つ学生たち、フィリピン語学留学やボランティア活動をしたことのある学生たち、フィリピンには行ったことはないボランティアサークルのメンバーたちなどなどでした。そこで、教職員学生から成る募金委員会が作られ、私が呼びかけ人代表となりました。なお、副代表となったのが、上記のフィリピン人スタッフでした。その打ち合わせ会合の様子は『中日新聞』によって報道されました。
学生たちの提案もあり、次の週に向けて準備を始めました。手造りの募金箱、フィリピン大学タクロバン校から送信されてきた被災直後のキャンパスの様子を写した写真をラミネートしたもの、学生がA3サイズの紙に書いてラミネートした募金への呼びかけ(例えば、「被災したフィリピンの大学と大学生のために」、「フィリピンの被災大学生にスマイルを届けよう」など)です。
昼休みが始まると、国際交流部前ロビーに授業を終えたばかりの学生が三々五々集まりました。3名から6名が集まったところで、次々とキャンパス内に5つある食堂やラウンジに向かいました。食事中や談笑中の学生たちに、募金を呼びかけたところ、国際学生たちを含めて多くが募金箱に浄財を投げ入れてくれました。つごう2週間、そのような活動が学内で続けられました。学生課のカウンター近くにも12月いっぱい「常設」の募金箱も置かれました。3大学の専任教員、職員、非常勤講師などにも呼びかけたところ、委員会に直接あるいは教職員を経由して募金が託されました。
こういった活動を広くお知らせし、募金を募るために銀行口座も開きました。呼びかけ文(日本語と英語)、そして振込方法も明記して、大学のメディア情報教育センターの協力で、3大学のホームペイジにもアップされました。また、大学の同窓会のネットワークにも伝えられたため、そういったものを見て、同窓生のみならず、一般の方々からの募金も届けられるようになりました。
私の担当クラスに、3年生でマスコミ志望の者(名古屋外国語大学国際ビジネス学科)がいたのですが、同級の親友と自分たちにも何かできることはないだろうか思案し始めていた時に、たまたま大学図書館前で映像カメラを持っている学生(名古屋学芸大学メディア映像学科の3年生)がいたので、声をかけ、話をしたところ、動画メッセージ製作に参加してくれることになりました。正に手造りの作品(2分41秒)となりました。
その完成の翌々週だったと思いますが、今度はフィリピン人を母親にもつ二人の学生(名古屋外国語大学現代英語学科及び日本語学科2年生)が、カナダからの交換留学生と共に、同じような呼びかけメッセージの英語版(4分37秒)を製作してくれました。それらの映像もホームペイジにアップされました。
そのような活動の広がりのなかで、フィリピン出身の大学院科目等履修生が名古屋駅前での募金活動に参加してもらえるということで励まされ、12月7日に街頭募金活動をすることになりました。寒風の吹く日でしたが土曜日の人出のなか、同駅桜通口の交番のすぐ前で、午前8-10時、午後零時半-3時半、午後5-7時の3回、延べ40人弱の教員、職員、日本人学生、国際学生、そのフィリピン人の友人たちが、声を張りあげ協力を呼びかけたところ、予想以上に多数の通行人たちが募金をしてくれたのです。
私の担当クラスに、3年生でマスコミ志望の者(名古屋外国語大学国際ビジネス学科)がいたのですが、同級の親友と自分たちにも何かできることはないだろうか思案し始めていた時に、たまたま大学図書館前で映像カメラを持っている学生(名古屋学芸大学メディア映像学科の3年生)がいたので、声をかけ、話をしたところ、動画メッセージ製作に参加してくれることになりました。正に手造りの作品(2分41秒)となりました。
その完成の翌々週だったと思いますが、今度はフィリピン人を母親にもつ二人の学生(名古屋外国語大学現代英語学科及び日本語学科2年生)が、カナダからの交換留学生と共に、同じような呼びかけメッセージの英語版(4分37秒)を製作してくれました。それらの映像もホームペイジにアップされました。
そのような活動の広がりのなかで、フィリピン出身の大学院科目等履修生が名古屋駅前での募金活動に参加してもらえるということで励まされ、12月7日に街頭募金活動をすることになりました。寒風の吹く日でしたが土曜日の人出のなか、同駅桜通口の交番のすぐ前で、午前8-10時、午後零時半-3時半、午後5-7時の3回、延べ40人弱の教員、職員、日本人学生、国際学生、そのフィリピン人の友人たちが、声を張りあげ協力を呼びかけたところ、予想以上に多数の通行人たちが募金をしてくれたのです。
名古屋駅付近での募金活動の様子。寒空の中、皆声を張りあげて支援を呼びかける。
多くの方々にご協力いただき、感謝。
午前中には、東海テレビとNHKが取材に来て、それぞれ昼前後にニュース報道をしてくれました。もちろん私たちは、その放送を見ることはできませんでした。ただ、午後3時前だったと記憶しているのですが、ひとりの若い男性が、募金を呼び掛けている私たちの周りを、自転車に乗ったまま2周ほどしました。それほど気にはしなかったのですが、やがて立ち止まり、「これ、フィリピン台風の…」と声をかけてくれました。私たちが頷くと、黙っていくらかのお金を募金箱の中に入れ、すぐに立ち去ったのです。
後日、たまたま録画されていたNHKニュースを見ると、アナウンサーが「この募金活動は、本日の午後にも続きます」と言っていたことに気づきました。想像するに、ニュースを見たあの男性は、意を決して、自転車に乗って名古屋駅前までわざわざ来てくれたに相違ありません。そういえば、同じころ「読売新聞社会部のデスクからきました」という記者が私たちを取材に来てくれました。彼も昼のNHKニュースで知ったそうです。翌日の朝刊に紹介されました。
後日、たまたま録画されていたNHKニュースを見ると、アナウンサーが「この募金活動は、本日の午後にも続きます」と言っていたことに気づきました。想像するに、ニュースを見たあの男性は、意を決して、自転車に乗って名古屋駅前までわざわざ来てくれたに相違ありません。そういえば、同じころ「読売新聞社会部のデスクからきました」という記者が私たちを取材に来てくれました。彼も昼のNHKニュースで知ったそうです。翌日の朝刊に紹介されました。
そういうメディアの報道に接しての嬉しい反響がもう一つありました。上記の11月20日の記事を読んだある団体(名称は、汎太平洋東南アジア婦人協会)が、その4か月後の2014年3月末に恒例のバザーを予定していましたが、私たちの募金活動に賛同し、収益の一部を提供してくださることになったのです。
このように、大学の中でその構成員(学生、教員、職員)が一丸となって活動を始めました訳ですが、少しづつ輪が広がり、広く一般市民の方々の共感も得て募金総額が増えていったのでした。
話は前後しますが、1月末の時点で、集まった募金が一定額に達したため、いろいろ検討した結果、レイテ島タクロバン市にあるフィリピン国立大学ビサヤ地域タクロバン校(UPVT)を相手校とすることに決めました。そこで私自身一度、被災大学を訪ね、被災の実情や復興のためのニーズを探ることにしたのです。
このように、大学の中でその構成員(学生、教員、職員)が一丸となって活動を始めました訳ですが、少しづつ輪が広がり、広く一般市民の方々の共感も得て募金総額が増えていったのでした。
話は前後しますが、1月末の時点で、集まった募金が一定額に達したため、いろいろ検討した結果、レイテ島タクロバン市にあるフィリピン国立大学ビサヤ地域タクロバン校(UPVT)を相手校とすることに決めました。そこで私自身一度、被災大学を訪ね、被災の実情や復興のためのニーズを探ることにしたのです。
レイテ島へ
根こそぎ倒れた大木。建物の窓ガラスはほぼ流され、屋根はゆがんでいる。
春休みに入った2月26日、私はフィリピンに到着しました。翌27日には、ケソン市にあるフィリピン国立大学(UP)ディリマン本校へ行き、旧知の同大学総長に表敬をしました。台風被害へのお見舞いの気持ちを伝えるとともに、名古屋の3大学が上記の募金活動を進めてきたこと、タクロバン校キャンパスを訪問することなどを話しました。
大変に喜んでくれると同時に、被災大学生(で希望者)合計518名、その内261名をディリマンキャンパス、196名をセブのキャンパス、59名をイロイロキャンパス、2名をロスバニオスキャンパスに、急きょ移籍させ、勉学を続けることができるようサポートしていることを知らせてくれました。ディリマンの場合、学生寮一つをかれらのために開放し、その学期中は寮費を免除し、食費及び最低限度の生活費も同窓会から支弁しているとのことでした。レイテでは大学の校舎や設備に甚大な被害があり、多くは自宅や下宿を失った被災学生がともかくも勉強を続けていることが分かったのです。
大変に喜んでくれると同時に、被災大学生(で希望者)合計518名、その内261名をディリマンキャンパス、196名をセブのキャンパス、59名をイロイロキャンパス、2名をロスバニオスキャンパスに、急きょ移籍させ、勉学を続けることができるようサポートしていることを知らせてくれました。ディリマンの場合、学生寮一つをかれらのために開放し、その学期中は寮費を免除し、食費及び最低限度の生活費も同窓会から支弁しているとのことでした。レイテでは大学の校舎や設備に甚大な被害があり、多くは自宅や下宿を失った被災学生がともかくも勉強を続けていることが分かったのです。
そして遂に、レイテ島タクロバン空港に到着しました。空港は海岸に近いところにありました。規模は少し小さいのですが、ちょうど東日本大震災の数か月後に私が仙台空港でタラップを降りた直後の体験がそのまま蘇ってくる印象でした。津波ならぬ高潮(英語ではtyphoon serge)が襲ったわけですが、建物の一階部分はほぼ、もぬけの殻、そこに仮の荷物受取スペースや搭乗手続き等のためのデスクなどがある状態でした。
窓ガラスがすべて流され、照明も無い教室での授業。
UPタクロバン校の学長が迎えに来てくれていました。夕刻でしたので、ホテルにチェックインだけして、学長ご夫妻と食事をしました。被災当日(金曜日の早朝でした)及びその週末の大学の状況、幸い犠牲者は直接の大学関係者には少なかったのですが(もちろん、家族や親族にはありました)、ほとんどの学生・教職員の住まいにおいて被害が大きかったこと、事情でディリマンほかのキャンパスに「国内留学」できなかった、あるいは、しなかった学生たちについては(丸2か月間の休校措置の後)1月に入ってから授業が再開されました。
しかし、教室は窓と窓枠も、廊下への出入り扉もそのまま流されてなくなっていたり、電気系統が未整備で照明がまだなかったり、倉庫だった部屋を臨時に教室にしたり、図書館の2階の蔵書は3階の屋根が吹き飛ばされたことから水漏れがあり多くが濡れてしまったりしたままの状態だった(3月でも、まだそのままの場所もある)ことなどを話してくれました。
しかし、教室は窓と窓枠も、廊下への出入り扉もそのまま流されてなくなっていたり、電気系統が未整備で照明がまだなかったり、倉庫だった部屋を臨時に教室にしたり、図書館の2階の蔵書は3階の屋根が吹き飛ばされたことから水漏れがあり多くが濡れてしまったりしたままの状態だった(3月でも、まだそのままの場所もある)ことなどを話してくれました。
その翌日からは、学長ご自身が、担当講義や会議の合間に、キャンパスの隅から隅まで案内をしてくれました。キャンパス内には、台湾の民間団体が寄贈した大型テントも設置されており、その風通しの悪い中で授業をしている様子も窺えました。高さ5,6メートルの木が根から露わに横たわっているのもそのままでした。増築完成したばかりというある建物の2階部分にあった約30平方メートルの会議室は屋根と天井と窓ガラスをすべて吹き飛ばされ、天井の一部はテーブルや椅子の上に落ち、露天状態になっていました。
学長は放課後、学生自治会のリーダーたちを含む20名ほどとの交流の場も作ってくれました。ちょうど、授業参観もさせてもらったときだったので、彼らの声を直接聞くことができました。キャンパス外の下宿で被災した学生たちの中には、学内の寮に「定員」の2倍か3倍のまま臨時に居住させてもらっている者もいました。以前は大多数の学生が、「必需品」として、個人PCを持っていましたが、それも失ってしまい、その3月の時点で、持っている(あるいは再購入できた)学生は全体の半分もいないとのことでした。大学の学生用コンピューター室にも浸水があり、何十台ものPC(教職員用のデスクトップPCも同様に)使用できなくなっており、何かと不便をしているとのことでした。
学長は放課後、学生自治会のリーダーたちを含む20名ほどとの交流の場も作ってくれました。ちょうど、授業参観もさせてもらったときだったので、彼らの声を直接聞くことができました。キャンパス外の下宿で被災した学生たちの中には、学内の寮に「定員」の2倍か3倍のまま臨時に居住させてもらっている者もいました。以前は大多数の学生が、「必需品」として、個人PCを持っていましたが、それも失ってしまい、その3月の時点で、持っている(あるいは再購入できた)学生は全体の半分もいないとのことでした。大学の学生用コンピューター室にも浸水があり、何十台ものPC(教職員用のデスクトップPCも同様に)使用できなくなっており、何かと不便をしているとのことでした。
そんなこんなで、被災後の学生たちは厳しい状態にありました。それにしても、かれらは目を輝かせて私に語り掛けてくるのです。日本の大学と大学生のことに関心を持っているようで、その時は、日本から学生を連れてきていたらどんなに活発なやり取りができただろうに、と思いました。
私が授業参観しているときに、ある女子学生のTシャツ(学生のほぼ全員の普段着はTシャツです)の背には UNIVERSITY OF THE PHILIPPINESがプリントされているのが目に留まりました。そういうシャツは何種類もあるので別に気にはなりませんでした。参観後教室の前のほうに出向き、学生たちに声をかけているときに、あの学生のTシャツの前面には大学の略称であるUPの大きな2文字がプリントアウトされ、そのすぐ上には、少し小さい字でNEVER GIVEとあるのです。私は、かの女が、そして被災した学生たち皆が、被災後もしっかりと勉強を続けていることを確かに感得したのでした。
私が授業参観しているときに、ある女子学生のTシャツ(学生のほぼ全員の普段着はTシャツです)の背には UNIVERSITY OF THE PHILIPPINESがプリントされているのが目に留まりました。そういうシャツは何種類もあるので別に気にはなりませんでした。参観後教室の前のほうに出向き、学生たちに声をかけているときに、あの学生のTシャツの前面には大学の略称であるUPの大きな2文字がプリントアウトされ、そのすぐ上には、少し小さい字でNEVER GIVEとあるのです。私は、かの女が、そして被災した学生たち皆が、被災後もしっかりと勉強を続けていることを確かに感得したのでした。
被災後も笑顔で勉学に努力する学生たち。
右端学生の赤いTシャツには「NEVER GIVE UP」と書かれている。
「UP」は、「University of the Philippines」の略でもある。
支援のオファーとニーズとのつき合わせ
滞在4日目、タクロバン校学長及び副学長と協議をしました。名古屋の3大学からの募金をどのように使うことができるかを話し合うためでした。その時点で集まっている(集まりつつある)募金総額を提示しました。すると、学長は3つの提案を出されました。
被災直後に撮影した写真をパソコンで確認。瓦礫に埋もれたキャンパス等。
水没して泥だらけになったパソコン。
順不同ですが、
- 完成したばかりだったのに、屋根が吹き飛ばされ、天井が室内のテーブルや椅子一式の上に落ち、露天状態になってしまった会議室の改築
- 学生がコンピューター室で、職員が各部屋で、使うためのデスクトップあるいはノートパソコン、およびプリンターのセット
- 高潮に飲み込まれて10mほど流され、フェンスに打ち付けられ大きく損傷した多目的校用車の代わりとなる車
確かに、1.の修復は欠かせないのですが、建築ですので数か月間はかかるだろうし、被災地であることから建材等の費用が値上がりしつつある、と見込まれました。2.ですが、被災から4か月経った時点でも、学生にしても職員にしても、勉学に業務遂行に欠かせないパソコンは、いくつあっても足りないほどでした。ただ、名古屋からの比較的まとまったお金で調達しなくとも、徐々にですが、購入していくことが可能な品物である、とのことでした。
3.の校用車ですが、トヨタのタクロバンのディーラーを通して注文すれば比較的早く納車してもらえる可能性がありました。教職員の足(公用車)として、来学者の送迎等(まだまだタクロバン市内の交通網は復活していないこともありました)のため、さらには学生自治会や学生団体の活動のため、多目的に使える自動車を得ることには緊急性もある、とのことでした。
なお、同校ではそういった車を英語で“Official Use Only”と規定していますが、日本語で「公用車」というと偉い人やゲストのための、という印象がありますが、そこでは文字通り、学校のため、ということで、必ず学長(室)の許可はいりますが、学生のグループや団体がイベントのためなどに使用する車になっています。いずれにせよ、専属の運転手が職員として雇用されていて、運転にもメンテナンスにもしっかり対応しています。
私はタクロバン校学長のリクエストには即答をせず、名古屋に戻って検討する旨を伝えました。被災大学と大学生の現状を見て、大学再建のためには多くの課題のあることを深く認識したからです。上記の3.の場合、集まっていた金額と自動車の予想される購入価格との間に、まだ差があったこと、などを考えると、やや重い心持ちで帰路につくこととなりました。
後日、名古屋に戻ってから何人かの方々に以上を報告するとともに、自動車購入に向けてさらなる募金努力をすることになりました。タクロバン校学長には、具体的にディーラーから見積もりを取ってもらうことにしました。約1週間後には、見積書が送られてきました。それを精査してみると、定価からかなり大きなディスカウントをしてもらっていることがわかりました。それもあって、4月上旬には何とか「達成額」(240万円ほど)が使えることになりました。
そういったまとまった金額を海外送金するにあたっては、いくつかの課題がありました。私たちは任意の団体で、銀行口座も「フィリピンの台風被害を受けた大学と大学生支援募金委員会代表津田守」であり、受取人は「トヨタ・フィリピン、タクロバン支社」だったのです。3つの大学がひとつのコミュニティとして集めたお金を、国立大学である相手校(もうひとつのコミュニティ)に直接送金し、それで自動車を購入してもらう手続きをせずに、ディーラーに支払うことで、自動車という現物を直接寄贈することになったからです。
名古屋市内のある取引銀行に私が出向き、事情を説明し、上記の新聞記事なども示して理解を得ることができました。そして、フィリピンの商業銀行のタクロバン支店の口座への送金手続きをしたのが、4月28日になりました。日本の祭日が29日、フィリピンでは5月1日が祭日、というタイミングでしたが、後日、聞いたところでは、無事、5月2日に振り込まれていたそうです。
3.の校用車ですが、トヨタのタクロバンのディーラーを通して注文すれば比較的早く納車してもらえる可能性がありました。教職員の足(公用車)として、来学者の送迎等(まだまだタクロバン市内の交通網は復活していないこともありました)のため、さらには学生自治会や学生団体の活動のため、多目的に使える自動車を得ることには緊急性もある、とのことでした。
なお、同校ではそういった車を英語で“Official Use Only”と規定していますが、日本語で「公用車」というと偉い人やゲストのための、という印象がありますが、そこでは文字通り、学校のため、ということで、必ず学長(室)の許可はいりますが、学生のグループや団体がイベントのためなどに使用する車になっています。いずれにせよ、専属の運転手が職員として雇用されていて、運転にもメンテナンスにもしっかり対応しています。
私はタクロバン校学長のリクエストには即答をせず、名古屋に戻って検討する旨を伝えました。被災大学と大学生の現状を見て、大学再建のためには多くの課題のあることを深く認識したからです。上記の3.の場合、集まっていた金額と自動車の予想される購入価格との間に、まだ差があったこと、などを考えると、やや重い心持ちで帰路につくこととなりました。
後日、名古屋に戻ってから何人かの方々に以上を報告するとともに、自動車購入に向けてさらなる募金努力をすることになりました。タクロバン校学長には、具体的にディーラーから見積もりを取ってもらうことにしました。約1週間後には、見積書が送られてきました。それを精査してみると、定価からかなり大きなディスカウントをしてもらっていることがわかりました。それもあって、4月上旬には何とか「達成額」(240万円ほど)が使えることになりました。
そういったまとまった金額を海外送金するにあたっては、いくつかの課題がありました。私たちは任意の団体で、銀行口座も「フィリピンの台風被害を受けた大学と大学生支援募金委員会代表津田守」であり、受取人は「トヨタ・フィリピン、タクロバン支社」だったのです。3つの大学がひとつのコミュニティとして集めたお金を、国立大学である相手校(もうひとつのコミュニティ)に直接送金し、それで自動車を購入してもらう手続きをせずに、ディーラーに支払うことで、自動車という現物を直接寄贈することになったからです。
名古屋市内のある取引銀行に私が出向き、事情を説明し、上記の新聞記事なども示して理解を得ることができました。そして、フィリピンの商業銀行のタクロバン支店の口座への送金手続きをしたのが、4月28日になりました。日本の祭日が29日、フィリピンでは5月1日が祭日、というタイミングでしたが、後日、聞いたところでは、無事、5月2日に振り込まれていたそうです。
届いたスマイル
車の発注は4月中旬にしてもらっていました。トヨタのマニラから届くか、少し心配していました(実際は、トヨタのセブからの配送だったようです)。実は、タクロバン校学長のたっての要望で、贈呈する自動車の引渡し式を5月6日に予定したい旨、連絡を受けていたので、私は5月1日にマニラ入りし、2日にフィリピン大学総長に報告の表敬訪問をして、4日にはタクロバン入りすることになっていたのです。おかげさまで、送金、支払い、納車すべて順調に行き、晴れて引渡しのセレモニーがタクロバン校キャンパス内の広場で行われました。その様子は、翌朝の『まにら新聞』に写真入りで大きく報告してもらうこともできました
自動車の両側には「University of the Philippines Official Use Only」が、後部には「A Donation from Nagoya University of Foreign Studies, Nagoya University of Arts and Sciences, and Nagoya University of Arts and Sciences Junior College」の全部がスティッカーとして貼ってあり、今では毎日、大学の貴重な「足」として、人を乗せたり、書類や荷物を載せたりしてタクロバン市内を走っていることでしょう。
自動車の両側には「University of the Philippines Official Use Only」が、後部には「A Donation from Nagoya University of Foreign Studies, Nagoya University of Arts and Sciences, and Nagoya University of Arts and Sciences Junior College」の全部がスティッカーとして貼ってあり、今では毎日、大学の貴重な「足」として、人を乗せたり、書類や荷物を載せたりしてタクロバン市内を走っていることでしょう。
日本の大学の構成員(学生、教員、職員、加えて一般市民)が、文字通り一丸となって、ひとつの共感(empathy)の証(あかし)をフィリピンの大学と大学生に伝えることができました。スマイルを届けることにもなったと確信しています。ご理解とご支援をくださったすべての人々に、この場を借りて深い感謝の気持ちを表明させていただきます。
本当にありがとうございました。Maraming salamat po!!!